昭和48年6月1日 朝の御理解


                              佐田恵介

御理解第3節  
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。こんぱん?、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」



??御理解第3節は、えー、最も金光教 的な 御教えであると思うですね。金光教的というよりも、金光教祖でなからなければ説きえられなかった事だと思うです。よる、釈迦もキリストもここには、ここにはまだ手が届いてないというほどしの、高度な御理解だと思うんです。ですから、金光教の信心さして頂く者がね、ここの所をすっきりと頂き、ここん所を、ほんとに実行していき、ここん所を、おかげを受けていくというおかげが、うじ、氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つようにいたすというおかげになってくるん(です?)。ね、神人(しんじん)共栄です。神と人とが一緒に、ね、共栄、共に栄えていくという 御教えなんです、ね。だから、ここら辺のところを大変難しく、うーん、ゆわれる方がありますけれども、まあ、あたくしは、まあ、わかりやすく今日はここん所を聞いて頂いて、つぎのことを??頂きたいと思うんですが。たとえば、天地金乃神と申すことはという事は、あたくし共が、-、信仰させて頂いておる神様は、やる天地金乃神様なのです。それは、どゆ事かというと、天地そのものが神というのではなくて、その天地の運行というか、運営というか、ね、天地の動きの一切を司ってござる神様なんです、天地金乃神と申すことは。そういう、方なん、天地金乃神と??。その、天地の中に地球というのがある。ね、いうならば、その天地の中に、あたくし共が御生かしのおかげを頂いて おるのにもかかわらずです、氏子おっておかげを知らずとこ????。そういう御恩恵というか、そういう神様のおかげを頂かなければ立ち行かない 世界に住んでおりながら、その神様の 御恩徳というものが、あまりにも偉大、あまりにも大きい為にです、気付ずわからず。よる氏子おっておかげを知らずという事 になる。そういうふうに頂いて??、ね。神仏の宮寺、あー、氏子の家屋敷みな神の地所。そのわけ知らず ほ、方角日柄ばかり見て、無礼致した。だから、こ、そういう事が、いや、天地に対する無礼になっておるという事なんです、ね。これはどういう事かというと、ここはあたくしいつも詳しく申しますがね。いやー、人間の思い違い、考え違いという事なんです。昨日も、日田の高柴さんが、娘さんのた、淑子さんを連れて、今度こちらに、あぁ地所を買うようにしよう。そしてそこに、えー、立派な家を建てようとしとる。もう設計図まででけておる。それをもってお願いに参りました。ところがその す す、設計図がです、北側のほうが入り口になっとる。北向きの家になってる。ね、それで、もうこりゃー、みんながいかんいかんち、北向きの家はいかんちいうから、西向きにしょうかどうか、というようなお届けがあったから、もう、使い、西向きのほうが使い勝手がよかならそうしてもよいけれどね、北もっがいかんちいう事があるもんの、ここも北向きじゃない。ここの、たとえば、あー、この大きい通りは、いうならば、あー、えー、南側のほうにたっとる家(や)はぜーんぶ北向きよ、そうでしょう。ね、おいここの御広前も北向きばい。だからね、金光様の信心させて頂く者が、その辺の所をスッキリ、まずは頂かにゃいかんです。人が言うけんで、えー、又、あー、ほんとにわるかかもしれんけんで。それがわかっとらんという事がです、天地に対する無礼である。という、ね、考え違い でしょう。わ、ほんとの事がわかってないという事です。それを迷信というわけです。だから迷信するという、そういう事に対して迷信するということは、ただそれだけならよいけれども、それが無礼のもとになっておるといいますから??、ね。その無礼が、前々のめぐりで難を受けよる。それが難儀のもとにさえなっておると、ここではもう 極言しておられます。難儀のもとというのはね、たとえばちっとばかりわるこつしたけんとか、まあ、あ、人に傷つけたけんとかとかとい、いったような事がね、そう難儀のもとになるとじゃないです。人間の難儀のもとというのはこう、大天地に対するところの思い違い。大天地の働きを無視しておる。大天地の、働きをです、ね。神様のおかげを頂かなければ、それこそゆぶい、指一本で押すだけの所でも、天地の神様のお守りを受けてないとこは無いのにもかかわらず、ここはいいの悪いのというように、天地に対してけちをつけるような考え方がです、前々のめぐりで難を受けおる、そういう事が積もり積もって、難儀の元を構成しておるんだと、こういっておられる。ね、ですから金光様の御信心するならね、そういう迷信的なことをほんとに、スキーッと一掃しなければいけんですよ、ね。高柴さんところの、お母さんが、亡くなられたのが、丁度あくる日が、んー、友引か、なんか。まあ、普通では、お葬式をしない。それで、その翌日にするように親戚に電報打ちましたというてお届けにきた。だからあた、その辺の時分はです。あ今日は、そういうとこに触れていくわけですけれども。あの、その時分のあたくしも、はっきり言いよりましたです、ね。そげなこつがあるもんのち、電報打ちなおしなさいて。金光様の信心しよってから、友引がよいの、なんどか、仏滅とか何とか。な、なんかとにかく、普通ではお葬式をしないという日で、でした。ですから、あたくしはわざわざ、全部電報打ちなおさせました。そして、その翌日、あの、告別式をさしていただ、あたくしが行って告別式をいたしました。どうでしょ、そのあくる日は も朝からじゃじゃぶりでした。ん、ほれで、ほんとにおかげ頂いたーという。そしてその後、高柴さんのお宅は、言うならば、繁盛の一途をたどるというおかげを頂いとる????(とうりでしょ?)。もう、ほんとにですね、あのそういう事に、そういう事をね、心に引っかかるという時には、まぁだ金光様御信心を頂いとらんとおなし事ですよ。だから、そういう事がです。ね、そういう事、か、限らず、ここん所はたとえば、あー、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所とおっしゃておるとなんかは、自分の物でもないものを、自分の物と思うておる考え方が、第一間違いなんですよ。ね、こりゃあたしのものと、思たりしとる。神様からのいわば、御あつかりものなんです。どれだけ財産があろうが、どんな立派な着物を持っておろうが、どんなに宝石をたくさん持っておろが、ああたの物じゃない。神、神様からのお預かり物なんだ。それを、使わせて頂く自由を許されておるという事ですから、お礼を申し上げなければいけない。そういう考え違いがね、難儀のもとを、うぉ作るのですよ。まあ、ここ辺の所はそのくらいのとこ。いわる、みんなの思い違い考え違いをね、いうならば、あー、指摘して教えておられる所です。も、大変な 大事な所です。ねぇ、難儀のもとというのが、ね、えー、たとえばキリスト教ではこういう。難儀のもとを仏教ではこういう。もう、そういうこともそうかも知れんけえども、そんな事じゃないと教祖は喝破しておられるわけで(す?)。ね、そして、それこそ一切がありがたいありがたい。とに、という受け方で行けば、人間が幸せになるというような、いうなら道を教えられた。そういう道をです。このたび金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授けと、そして理解申して聞かせという事になっておる。だから、たとえばそういうような事を、いわ、理解申して聞かせて下さっ。願う氏子に、まずわからんままにおかげをやって、そして、懇々と天地の道理を 説き、又は天地の御恩徳を説き、けしって自分の物という物は、この世に生まれてくるときに、それこそ糸ひとすじでももってきたという人間なおらんでしょう。それこそ、丸の裸でまい、生まれてきて、全部与えられ、いわば貸し与えられ。与えられるというよりも、貸し与えられておるようなもの。ね。だから、そこん所の、お互いが思い違いをしな。そこの所まずは、スッキリする事。そして、理解申して聞かせとおっしゃる、理解を聴かせて頂くということがです、それを、おー。 昨日、こういう御本をどっからか送って頂いておる。??なみという 御本ですけども。えー、参る、聞く、行うという、これは信心の根本姿勢。御道の信心の根本姿勢だというふうに説いておられます。参るという事、聞くという事、行うという事、ね。ですから、理解申して聞かして下さるのですから、その理解を一つも、自分達の理解力によって、それを理解し、それを実際におこのうて、なるほどそうだなぁ、なるほど、日柄も方位もあるもんじゃあないんだな。神様のおかげとして頂けば、一切がおかげという所をね、わたくしゃ突き抜けた し、心境というものが開けてこなければいけない、ね。そして、その理解を聞かせて頂いて、実行させて頂いておる所からです。ね、神も助かり氏子も立ち、いわるあいよかけよの働きといったような、働きあいという、うー、信心をわからしてもらい、ね。えー、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす、という、いやる、天地金乃神様の 理想郷 が、あたくし共の上に開け、あたくし共の上に現れてくるわけでございます、ね。だから、ここん所をず?このようなふうに、大体わからして頂いて、金光様の御信心をさして頂くべきであります、ね。ここん所がぐずぐずしとったら、何十年たったってスッキリとしたおかげになりません、ね。高柴さん、昨日 ほんともう親先生の御理解いただくと、ほら淑子さん、も、そうじゃろがて。そげんこと気いせずに、これが一番使い勝手がよいというなら、こりで。なぁ親先生がそういうときは腹が決まった、という、その腹が決まったという事がおかげになるのです、ね。わたくしは、今朝から御夢を頂いた。その御夢というのが、ある、ここでね、熱心に、熱心、熱心な、もとは方だった。今は熱心じゃない。まあ、月の内5.6回参ってくるくらいな方なんですよ(ね?)。その人が、そのー、もう、それこそもう、こげな自動車見たことないというよな立派な自動車に乗ってきてるわけなん。お参りしてきてる。それで、えー、帰る時に、あの、タバコを出した。タバコは、珍しいタバコを頂いておったから、丁度いつはこ(5箱)ばっかり、あった。それで、あたくしが、んー、ひさし、あー、まー、久しぶりゆっくりその人と話して、したんでけん。んー、じどしゃんところに、その、たばこをあたしゃもっ、人間心(ごころ)つこうてもってってやった。あたしゃどうせタバコはのまんし、えー、そいつはタバコを吸うから。もっていってやった。ところが、なるほど珍しいタバコではあるけれども、あんまりよいタバコではないらしいですよ。したら、運転手がまっとる。その運転手にやったら、運転手が、あー、ちょっとポケットの中にいくつか入れちから、その、本人に、あの、渡そうとしておる所、そして、受け取った本人は、ああ、こげな安かタバコはあたしゃのみよらん、ちてから、自分のポケットからもっとすばらしいタバコを出しておるという、とこだった。そして、わたしゃ帰ってき ておりましたら、あたくしがその、タバコをやるけんちょっと待たんのちゆうてその、待たせたわけですよね、そのじど、自動車を。そしたらその、こう道路筋においとったもんですからね、んー、接触してから、その、その見事な自動車が、ちょこっとばかり引っ込んだ所を頂いた。あたしゃ、も、すぐその御夢の中で、あたしがちょっと人間心をつこうたばかりにですね、その、そのタバコもかえって罪をつくっとっでしょうが。運転手がどっか途中でといよる。して、な、向こうに人間心つこうて、よろこぼうとおもうてやったのが、喜ぶどころか、かえって、こげな安かタバコはあたいだんのみよらん、ち、ゆうごたる ばかりに、もっとよいタバコを出してのみよるち??、ね。あたしの、いうならしかともない人間心がで(す?)、しかも、ただちょっと待たせたばっかりに、なもう そんとき つうっといっとりゃ、接触しなかったでしょう。ところが、待たせたばっかりに、その、接触されて、その自動車が、横引っこんでおる。はぁー、人間心つこうちゃならんなと、思いながら目が覚めた。 ね、そしてあたしは思うたんです。あたしぐらい、大体人間心をつかん者は、まずはなかろと思うくらいに、あたしゃ人間心使わないです、ね、皆さんご承知の通りです。も、実をいうたら神経(しんけ)がこまいですから、もう、こう人間心はもっとるです、実をいうと。人情も、こうだぶだぶするごつもっ。もう、人情過剰であたしゃ難儀をしたぐらい、自分で思うとるです。ですから、それをもう使わん。神情一つで行くぞという 気持ちになって おかげ頂いとるから、合楽では皆さんが、神乍らなおかげを受けられるんだと、こう思うんで。そりゃあもう、その神乍らなおかげというのは、そりゃ恐れ入ってしまうですよ、うん。ほんとにそこに時節が到来したときのおかげというものは、もうあたしが人間心使うなら、途中でガチャガチャになってしまうだろう、といったような問題が、その、神乍らな行き方ですっと、もう見事なおかげになっていくという事は皆さんもご承知の通り。というほどしに、??人間心使わんのにです、人間心を、おー、使ったような御夢を頂いたのが、どういう意味だろうかと思うて、ぇ、今朝からその事をしきりに、こちらへ、えー、控えにこらして頂いてから、考えさせて頂いた。そして、あの、考えつかせて頂いたことはね。ここでは黙って治めるということをいいましょ、ね。たとえばここに、な、久富繁雄さんがおられる。なら、この人はここんところばおかげ頂きゃー、もう、ほんとスキットおかげ頂けるとに、と、こ 思うでしょ、あたしゃ。けども、はー、いうちゃならん、いうちゃならん、黙って収めなん、というて、黙って祈るという生き方なんです。 ははー、これが人間心だな、とあたしゃ思うたです、ね。そ、そうすればおかげになるという事がはっきりわかっとるなら、それをいう事が神心であり、神乍らだと、あたしゃ今日は感づかせて頂いた。ははー、そういう事だな。そういう事がかいって、その、タバ、タバコという事にいろんな意味があるという事はね、その人が、はー、いまー、ドンドンおかげ頂きよる。あげなこっちゃおかげ頂ききらん。お、おかげにならん。本当のおかげにならん、お徳にならんと、あたしゃ思うておるわけです。けれども、(そ?)の、一服させておるという意味なんです、あたしが黙って、ね。ですからその、おー、黙ってあたしが祈っておる。そのうちにやぁ、又熱心に信心してくるようになるだろうというもな、思い方をしておる。だから○○さん、あんた今のごたる事じゃおかげにならんよ。今合楽では、ね、とにかく日参、ね。教会の事を願う、ね。それこそ、教会の事を一生懸命願う。教会の御用さしてもらやぁー、自分方の用は神様がしてくださるといったような事を、それを、昨日の御理解に、阿倍野教会の生き方、じっ。本当の、阿倍野の御比礼はここにあるな、というようなものを感じました事を、そういう風に話しております。ね、ですから、あのー、その事を、そうがほんなこつばいとこう、いうて聞かせれば いい訳なんですけども、それを言わずにわたくしが、あー、人間心をつこうて、ほ???る、ね。そこでです、な、あたくしが皆さんの一人一人にです、ね。えー、たとえばなら、原さん、あんたは、ここばいっちょ改まりなさい?。こうしなさい。あんたは、な、いうとくだけはいうとくとじゃけん、あんたがするせんな、あんたが勝手。けぇども、そげんせにゃほんとのおか(げ?)にゃならんばい、ということをあたしが知っておる。知っておるなら、それを教える事が神乍らで、それを、あたしの心の中でもっておる事は、人間心をつこうて、いいきらんなおるということなん、ね。だから、あたしゃそれをいおうと、こう、今日は思うた。皆さんの一人一人にゆおうと思うた。ところが神様がね、それを言うとはらかくて神様が?????。それをかう。それをいうとかえっておかげを落とす氏子もあるとおっしゃ(る?)。ね、そんならどんこんしよんなかじゃない。そこで私は思うた。これは、わたくしの御理解、御話を皆さんが一人一人、わたくし一人の為に下さってあると、これから思うて頂きたいという事です。はー、先生があの人にあてつけちいいござるばいの、ちなんてん思わずに、私、あたし自身に、私一人の為に頂いて 下さってあるんだという 頂き方をしなければいけない、ね。たとえて、まあ申しますなら、極端なこというならば。ね、泥棒根性のある人にです、あんた、その泥棒ばやめなこていかんばい、なんてんいうたら、もうそれこそかっかとなってはらかくでしょう、ねぇ。ですから、やはり それは いえることではないことなんですから。けれども、御理解の中には満遍なく、それが説かれておるんですから、あれはみんなが頂いておるのじゃない、私一人が頂いておるんだという 頂き方をさせていただくという事がで、理解申してき 聞かしてもらった事を理解して、そして、まいる。いうならば、行う、ね。えー、参る聞くですかね、参る聞く行うという事になってこなければならない。  今日、あたくしはこの天地、このー、御理解三節を、もうほんとにこんこ、もう、最も金光教的で、しかもあらゆる宗教家がで、どういう大宗教家でも 説きえていなかった所を、そのものズバリに説いてあるのが、この御理解三節だと思うんです。ですからここん所をです、あたくし共が、ね、えー、理解、おかげを受けながら、理解を聞かせてもろうて、その理解を自分の身に付けていくならば、末々繁盛いたす事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようになってくる、おかげが展開してくる????(訳な?)そこでです、理解申して聞かせという所をです、言うならば、これからは、これから、今までもそうでしたけれどもです、ね。えー、いうならば噛んで含めるように、ここでは理解を聞くわけですから、それを聞かな、聞かなきり ば、ぎ、行じなければ、いわる、天地金乃神様の理想郷である所の、ね、神も氏子も 一緒に、共栄になって、共に栄えて行くという、神の理想郷。又は、あたくし共の願ってやまない、信心理想という事になってこないという事。 ね、そういう意味でです、あたしゃ昨日の朝のご理解はもう一遍思い出させて頂いてです。ははー、昨日はああいう御理解を頂いたことをです、あたくし共の、ほんとに、身に付けさせて頂く、血に肉にならせて頂くならです、ね。いよいよ、この御理解三節に説いておられる、よる、金光教の信心しなければ頂けないという ほどしのおかげが現れてくると思うのです、ね。わたくしが、人間心を使うという事は、ね、も、その事自体が、かえって罪作りであり、又は、かえって怪我させる事であり、かえっておかげを頂かない事ですから、わたくしはもう、どこまでも、神乍らな、人間心を使わずに皆さんに、お取次ぎさしてもら???。普通でいう人間心は、もうあたしほど使うものはおるまいという位に使いません(です?)、こりゃほんとに。けぇども、今日御夢で頂くと、な、あたしが人間心つこうとると指摘して頂いたから、んなら、どこが人間心であろうかと思うたら、あたしの心の中に思うておる事。誰々さんはここを改まるとおかげが頂けるばってん。誰々さんはここん所を こうしな、こういう信心なったら徳を受けるのにと、あたし知っておる、ね。というて、それを、んなら、あたくしは、ほん、ほんとにきっしん?してゆおうと思うた。今日は。その事頂いたから。一人一人に、ひとつん?別室に呼んででも、あの、ゆおうと思うた。ところが、それをいうたら、おかげをまだ落とすほどのまだ信心迷う が、迷いにくるほどし の、お互いの信心であるという事をまず知ってです。そしてあたくしが日々説かせて頂くのは、あれは、あたくし一人の為に頂いておる御理解としてです、ね。又は、自分で気がついて、はー、自分なここばいっちょ改まらにゃおかげにならんもんと思とんなら、ほんとに、そこん所を行の上にあらわして、改めていく信心を さしてもろうて、ね、神乍らなおかげを頂きたい。この御理解三節の全般に申しました所、ここん所は、まずは皆さんがそこん所をスッキリしなければいけません。自分たちの思い違い考え違い。天地金乃神様という方はです、そういう、例えば 天地を動かしなさる 働きをしてくださる神様。その神様に、一切をゆだねる、任せる。今までの思い違い考え違いを、お詫びをする。(ほん)とに、わたくしのもののような思い方をしておった、そこん所に、ご無礼を お許し頂くところの、うーん、信心をさしてもらう。  昨日は、うー、月末の、んー、月末(つきずえ)御礼信話会。で、も、大変おかげを頂きました。あたくしは、この、毎月、いー、一番 月末(つきずえ)の日に、御祈念のあとに。昨日は、も、ひと月のあだに おかげを頂いて。又は、教えを頂いて。その教えが自分の血に肉になった所だけを一口ずつはなさん。頂いたおかげを、ほんとに 神様のお礼のつもりで、一口皆さんに聞いて頂く。というようなです、この 頂き方にして、月末の、いわば 御礼 のための信話会にです、みんなが出席できるよ(な?)。そして、ひと月の締めくくりの御礼を、心行くばかりに、お礼を申させて頂いてです、つぎの新しい。例えば、昨日で言うならば、六月の新しい月を迎えさせて頂くような いっかたに、ならなければならないと思うのです。ですから皆さん、あの、今日からです、ね。例えばあの、おー、あたくしの御教えを、只今申しましたような意味合いで?、頂いてくださるならもう、何かが、血に肉になるだろう。そこに又おかげも現れてくるだろう。それを、発表されるほどしの所まで、一つ?今月はたかなきゃいけん。あたくし自身もこ、今朝(こんちょう)頂いた御夢を、も、もっとうにしてですね、いうならば、人間心をいよいよ 使わずに、神乍らな生き方で 行きたい。それを今月の信心の 信条にさしてもらいたいとふうに思うとります、どうぞ。